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フリチョフ・ナンセン(1861-1930)
++:難民保護
+:探検家
ノルウエー建国の功労者
近代スキーの父
-:特に無し。強いて言えば、探検計画がやや杜撰か?
フリチョフ・ナンセンは、北欧の小国、ノルウェーが生んだ英雄の一人です。名著
「夜と氷の中(日本では「極北」として知られる)」で有名な探検家で、北極点到達レ
ースにおいて19世紀の最高記録を作ったことで知られていますが、まあ、たいてい
の日本人が知っているのはここまででしょう。小学生向けの伝記などでも、ナンセン
に関する記述はここまでです。しかし、彼の人生における真の戦場は、北極海では
なく戦乱のヨーロッパでした。昔は岩浪少年文庫から伝記が出ていたのですが、現
在では手に入りません。従って、この記事もかなりつぎはぎで構成されています。
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生誕から北極行きまで
ナンセンは1861年10月10日、弁護士の息子としてノルウェー(ただし、当時は同君連合としてスウェーデン
の支配下にあった)のクリスタニア(現オスロ)郊外のかなり大きな家で生まれました。今は宅地になっているよう
ですが、当時は森と原野の地域であり、釣りや狩猟は勿論のこと、体を鍛える機会は十分にあり、ナンセンは万
能のスポーツマンとして成長しました。この時の肉体的な鍛錬が、後の(やや無謀で危険な)探検行で生かされる
ことになります。また、ナンセンは母親の影響(北欧では当時、スキーは男性のものと考えられていたので、いろ
いろと悲しい思いをしていたようです)でスキーが大好きであり、これまた長じて後の彼の行動に大きな影響を与
えています。
1880年、クリスタニア大学に入学した彼は動物学を専攻します。なぜ動物学かというと、彼はもともとかなりの
絵のセンスがあり、フィールドワークが多い当時の動物学の分野では、芸術的才能を伸ばすのに都合が良いと
考えたからのようです。
1882年、ナンセンはアザラシ漁船に便乗して北極地方で研究するように勧められました。そして1882年の
春から夏にかけてグリーンランド近海で過ごし、ここで北極に対する強い興味が芽生えたようです。帰国後、ベル
ゲン博物館に就職して下等動物の神経系に関する研究を続け(北極とは関係ない気がしますが)、1888年に博
士号を得ました。
グリーンランド横断
アザラシ漁船の遠征から帰ったナンセンは、1884年、グリーンランド遠征計画をノルウェー政府に提出しまし
た。当時、グリーンランド内陸部は未踏査であり、この計画には科学的な意義は十分ありましたが採用されず、
計画の実現は1887年まで待たねばなりませんでした。それも、相変わらずノルウェー政府は資金提供を拒否し
ていたので、デンマークの富豪が必要な資金を寄付してくれたからです。
何故実現が遅れたかというと、ナンセンの計画が根本的に危険で無謀だからでした。彼の探検計画はグリーン
ランドの東岸から西岸まで横断することになっていたのですが、これがまず無茶でした。現代でこそグリーンラン
ドは両岸に町がありますが、当時のグリーンランドの入植地は全て西岸にあり、東岸は全く無人でした。つまり東
岸から出発するということは、何かトラブルに遭遇して引き返す羽目になったとしても、救助の当てが全く無いこと
を意味していたのです(このような「前進あるのみ」の背水の構えは、何かにつけてナンセンの行動の特徴だっ
た)。彼の勇敢さと大胆さの現れではありますが、はっきり言って無謀。次に無謀だと思われた点は、移動手段に
ありました。いかなる根拠があったのか分かりませんが、ナンセンはグリーンランド内陸部においてはスキーが
最適な移動手段だと考えていました。ナンセン自身はスキーの名手ですし、スキー以外で雪上を歩く手段となれ
ばスプラッチャーくらいしかありませんから(スキーと違って斜面を滑り降りることなどが出来ないので歩みは遅
い。長靴で雪の中を泳ぐのは問題外)、まあ妥当な判断です。しかし、何を思ったかスキーにこだわるあまり荷物
用のイヌ橇を用意せず、これは専門家でなくても狂気の沙汰だと考えました。
それでもナンセンは、確固たる信念を持ってグリーンランド横断に挑みます。1888年5月、ナンセンは5名の
部下とともにノルウェーを出発、旅のスタート地点であるグリーンランド東岸、サリミックフィヨルドに到着します
が、悪天候に見舞われた上に、氷が薄くて上陸できず(5月と言えば解氷に向かう季節、当然と言えば当然なの
ですが・・・・・・)、なんだかんだと8月15日まで足止めを食ってしまいました。しかし8月と言えば、北極圏では冬
の入り口。ナンセンとしては、天候の穏やかな夏の間に探検してしまうつもりだったのでしょうが、いきなりズッコ
ケたわけです。
さて、ナンセンと5人の仲間は出発したのですが、すさまじい吹雪、予想もしていなかった標高3000メートルに
およぶ氷の山(グリーンランド内陸部は、馬鹿でかい氷の山がかぶさった大きな盆地になっている)、−45℃まで
下がる気温(高度が高いこともある)と言った自然条件に加えて、イヌ橇無しというのはやはり無謀でした。装備や
補給品は、各自が携行出来る量と人力で橇に乗せて引きずれる量に制限されており(多分、一人当たり100kg程
度か?)、出だしでコケていたこともあって、わずかな遅延すら致命的な事態になりかねませんでした。また、ペミ
カン(ひき肉と果物、野菜などを脂肪と混ぜ合わせて固めた保存食で、探検隊には必需品だった。けっこう美味し
いらしいです)の脂肪分が少なくてヘルシー過ぎたため(というか、完全な調合ミス)、ナンセンたちは皮下脂肪の
減少というかなり危険な事態にも見舞われました(ペミカンの脂肪は凍結防止の役目もあるので、脂肪の量を間
違えたからにはがちがちに凍りついていたでしょう)。しかし、ナンセンは不屈の意思と強靭な体力、天性のリー
ダーシップで危機を乗り切り、9月の終わりにはグリーンランド西岸に到達。南下して、10月の初めにはグリーン
ランド最大の入植地、ゴッドホープに無事到着しました。
しかし、グリーンランド発の最後の定期船は出発した後であり、結局、そのまま越冬する破目に。ヒマな時間を
ナンセンは、エスキモー(当時)の生活文化やサバイバル技術の研究に充てることにしました。そして1889年5
月、2年ぶりにノルウェーに帰国したナンセンは、国民的英雄として迎えられます。
このグリーンランド横断成功は、グリーンランド内陸部の地学的研究の基礎をもたらしたのは勿論、その後の
極地探検技術に計り知れない影響を与えました。1891年、ナンセンはグリーンランド遠征の成果を「エスキモー
の生活文化」と「「スキーでグリーンランド横断(そのまんまのタイトル・・・・・・)」という二冊の著書にあらわしまし
た。「エスキモーの生活文化」も、イヌイット族研究の草分けですが、より重要なのは後者の本です。ここにはスキ
ーに関する技術や用具の解説もあり、それまではスカンジナビア地域でしか知られていなかったスキーが、全ヨ
ーロッパに(やがては雪が降る地域ならどこでも全世界に)広まることになったのです。ナンセンの著書に感銘を
受けたオーストリア人、ツダルスキーがストックを使って滑降するスキー術(ただし、当時は一本ストックだった)を
開発し、スポーツとしてのスキーの歴史が始まったのです。ナンセンが「スキーの父」と呼ばれるゆえんです。
「あらゆるスポーツの王者の名に価するスポーツがあるとすれば、それはスキーである。
スキーほど筋肉を鍛え、身体をしなやかに弾力的にし、注意力を高め、巧緻性を身につけ、意志を強め、心気を
さわやかにするスポーツはほかにない。晴れ渡った冬の日にスキーをつけて森の中へ滑走してゆく・・・・これに
まさる健康なそして純粋なものがほかにあるだろうか。深々と雪におおわれた森や山のすばらしい自然にまさ
る、清純高貴なものがほかにあるだろうか。
樹木のある急斜面を飛鳥のように滑り下ることにまさる爽快新鮮な生気をかきたてるものが、ほかにあるだろ
うか。明澄な張りつめた冬の大気が、そしてタンネの小枝が頬をかすめ、われわれの目も頭脳もそして筋肉も、
不意にゆく手に立ち現れる未知の障害物をかわすために極度に張りつめる。 日常の生活はいっぺんにわれわ
れの頭から拭い去られて、都会の空気もろともはるかわれわれの後方へ遠のいてしまうかのようだ。
われわれとスキーとそして自然とは、いわば渾然として一つになってしまうのである。これはただ身体を鍛える
ばかりでなく心をも高めそだてるものであり、国民にとって、多くの人々が漠然と予感しているよりも、さらに深い
意義をもっているのである。」 フリチョフ・ナンセン
(『スキー発達史・現代スキー全集』実業之日本社)より
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